こだわり通信
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第130号〜
第120号〜
飲酒運転問題
2006.10.20

 皆さんご承知の通り最近社会問題になるほどよく取り沙汰されており、私たち酒類業界にとっては深刻な問題であります。「飲んだら乗るな、乗るなら飲むな」 という標語は古いかもしれませんが、語呂がよく簡明でありながら最も核心をついている表現だと思いませんか?
 私自身への今後の戒めも含め、お店に来ていただくお客様にもこの標語を改めて心に留めて頂ければと思います。

柴田屋酒店 阿部貴司

芸術の秋です!!

いきなり芸術って何?と思われるかもしれませんが、芸術とお酒は切っても切れない関係にあります。歴史的にもそうですが、特に音楽とお酒は強い関係にあるのではないでしょうか。
  私事で恐縮ですが、最近クラシック音楽の演奏会を聴きに赤坂のサントリーホールに行ってきました。途中20分間休憩があったのでバーカウンターに行ってみると多くの方がワインやスパークリングワイン、ウイスキーを片手に楽しんでいました。
  また別の機会にオペラを見に行った時ですが、会場では休憩中は大変多くの方がお酒(シャンパンやワインが多い)を楽しんでいて、まるでヨーロッパの華やかな社交場という感じでなかなかいい雰囲気だな と思いました。
  華やかな場面をさらに華やかに彩るビールやウイスキーやワイン、つくづくお酒っていいものだなあと再確認した瞬間でした。

 初めてのこだわり通信ということで、少々気負っておりますが今後もどうぞよろしくお願い致します。

柴田屋酒店 阿部貴司

国産第一号ウイスキーはサントリー

 サントリーの創立者、鳥井信治郎の鼻は偉大でした。
人並みはずれて大きいというばかりでなく、樽ごとのウイスキーの個性をきき分ける嗅覚には研ぎ澄まされた鋭さがありました。

 この信治郎の鼻が最初にブレンドしたウイスキーは“白札”でした。現在のホ ワイトの前身でこれが国産ウイスキー第一号となりました。昭和4年のことです。
  信治郎は大正12年、ウイスキーの国産化を宣言し、わが国で初めてのウイスキー工場を京都郊外の山崎の地に建設、ウイスキーづくりの第一歩を踏み出しました。当時は第一次世界大戦後の激動の年でましてやスコットランド以外の地でウイスキーをつくるなどという企ては冒険ともいわれました。
  しかし、天王山のふもと山崎の地がスコットランドのローゼス峡にも比較される地の利に恵まれ、初の国産ウイスキーを誕生させました。ところがサントリー白札は堂々たるウイスキーだったにもかかわらず、売れ行きは芳しくありませんでした。
  信治郎は日本の風土を、日本人の感覚を、自分の鼻を信じていました。日本の豊かな自然と日本人の鋭い感覚はきっとスコッチ以上のウイスキーをつくりだすことができる、と信じていました。孤軍奮闘、日本人の味覚に合ったウイスキーを求め続け、ついに傑作“角”と“オールド”を世に出し、やがてわが国のウイスキー時代を招来することになります。

掲載に多大なご協力を頂きましたサントリー株式会社様、ありがとうございました。

柴田屋酒店 柴寛宏

第5回経営計画発表会

 9月24日の日曜日に東中野の日本閣で5回目の経営計画発表会を行いました。毎年毎年良くなり大成功という最高の形で終わりました。下記の写真がその模様です。

第五回経営計画発表会 今月からコダワリ通信の1ページを担当しますサポート課の松永です。
業務の方は主に、倉庫の方で仕入先様の荷物の荷入れや都内12台走っているトラックの手配などをしています。ここの1ページは主に誕生日月の社員紹介や社内の出来事などを書いていきますので皆さん楽しみにしていてください。さっそく今月は3人の社員の紹介をしていきます。

物流サポート課次長 磯谷 清治
10月20日で56歳になります磯谷です。営業を離れて、3年になります。今は朝業務で朝3時半位から会社にいます。留守番電話を聞き、起伝の仕事をしています。入社33年になります。豊富な現場経験を今後も生かせるようがんばります。

営業サポート課課長 阿部 貴司
9月より仕入業務から営業サポート課に移動した阿部と申します。ワインの仕入を続けていたためワインへの興味が高まり、ただ今勉強しております。生涯の趣味と決めたチェロと共にまた継続できる趣味が増えてうれしい限りです。電話応対もしておりますのでよろしくお願いします。

サポート課 石岡 文仁
10月で柴田屋酒店に入社して4ヶ月になります石岡です。現在西東京(杉並、練馬、調布)などを配達しております。まだまだ覚えることがたくさんあり、日々勉強ですが持ち前の明るい性格と根性でこれからも頑張っていきますので宜しくお願いします。

柴田屋酒店  松永健治

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